わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、
あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。
ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。
そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、
この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。
しかし彼はバビロンの王にそむき、使者をエジプトに送って、馬と多くの兵とをそこから獲ようとした。彼は成功するだろうか。このようなことをなす者は、のがれることができようか。
したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。
この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。
御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、
大声で叫んで言った、 「救は、御座にいますわれらの神と 小羊からきたる」。
すべての人を救う神の恵みが現れた。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。
へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。
見よ、主は地の果にまで告げて言われた、 「シオンの娘に言え、 『見よ、あなたの救は来る。 見よ、その報いは主と共にあり、 その働きの報いは、その前にある』と。
わが義はすみやかに近づき、 わが救は出て行った。 わが腕はもろもろの民を治める。 海沿いの国々はわたしを待ち望み、 わが腕に寄り頼む。
見よ、神はわが救である。 わたしは信頼して恐れることはない。 主なる神はわが力、わが歌であり、 わが救となられたからである」。
それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。
すなわち、ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち、だれかひとりが、わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」。
あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。
「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、
ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、
彼は誓いを軽んじ、契約を破り、その手を与えて誓いながら、なおこれらの事をしたゆえ、のがれることはできない。
彼らは衣のように、しみに食われ、 羊の毛のように虫に食われるからだ。 しかし、わが義はとこしえにながらえ、 わが救はよろず代に及ぶ」。
その日には、この海べに住む民は言う、『見よ、われわれが頼みとした国、すなわちわれわれがのがれて行って助けを求め、アッスリヤ王から救い出されようとした国はすでにこのとおりである。われわれはどうしてのがれることができようか』と」。
人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。
わたしたちのために救の角を 僕ダビデの家にお立てになった。
この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。
この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、
御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。
キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――
愛する者たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。